過ぎたるは戦国歴史まとめ

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    毛利勝永

    2: 日曜8時の名無しさん 2016/05/21(土) 10:50:25.22 ID:XJkaN7VG
    関ヶ原じゃ、敗軍の中、落武者狩りに合いながら逃げたし、
    ただ冬の陣で手柄ゼロは痛いわな。明石全登でも城外の砦
    任されてるし、近年の研究では真田丸も城外と云えなくはないとか

    4: 日曜8時の名無しさん 2016/05/21(土) 11:28:54.48 ID:ibmKPW0A
    草刈真田幸村「毛利殿は何故待てぬのか」

    本多忠朝隊が抜け駆けで突っ込んできたんだから仕方なくて
    しかもそれらを全て撃破して家康の本陣にまで攻め込んだのに
    勝永がやりあっている隙に真田に先を越されしかも家康を獲り逃がされ
    その責任を真田の策に従わなかったからと押し付けられた哀れな武将

    5: 日曜8時の名無しさん 2016/05/21(土) 11:30:32.42 ID:7Px2ul+5
    毛利元就のご落胤って話なら明治以降も含めて凄い盛り上がってただろうなあ

    【真田幸村より毛利勝永のほうが武勇に秀でてるよね?】の続きを読む

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    1: 名無しさん@おーぷん 2016/09/02(金)23:17:39 ID:iS0
    クッソ有能杉ィ!

    3: 名無しさん@おーぷん 2016/09/02(金)23:27:35 ID:iS0
    7日の天王寺口の戦いでは、兵4千を率いて徳川家康本陣の正面、四天王寺南門前に布陣した。
    戦闘が始まると、本多忠朝や小笠原秀政・忠脩父子を瞬く間に討ち取り、続いて浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純といった部隊を撃破し、遂には徳川家康の本陣に突入するという活躍を見せた。
    しかし、真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、四方から関東勢の攻撃を受けたため撤退を決意。退却においても勝永の指揮ぶりは際立っており、反撃に転じた藤堂高虎隊を撃ち破ると、井伊直孝や細川忠興らの攻撃を防いで、城内へ撤収した。
    8日、その最期は、守護していた豊臣秀頼の介錯を行った後[32]、息子である毛利勝家、弟の山内勘解由吉近と共に蘆田矢倉で腹切って自害したという。享年37。

    4: 名無しさん@おーぷん 2016/09/02(金)23:29:29 ID:iS0
    毛利勝永は天王寺口の決戦で多大な活躍を見せたが、これを望見していた黒田長政は僚友の加藤嘉明に「金ノ輪抜の旗指物の城兵が力戦しているが、あの大将は誰であろうか」と尋ねた。
    嘉明は「毛利壱岐守が子なり」と答えた。それを聞いた長政は「ついこの間まで幼若の者と思っていたが、武略に練達した大将となったものよ」と感嘆したという[36][37][38]。

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