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1: 名無しさん@おーぷん 2016/09/02(金)23:17:39 ID:iS0
クッソ有能杉ィ!

3: 名無しさん@おーぷん 2016/09/02(金)23:27:35 ID:iS0
7日の天王寺口の戦いでは、兵4千を率いて徳川家康本陣の正面、四天王寺南門前に布陣した。
戦闘が始まると、本多忠朝や小笠原秀政・忠脩父子を瞬く間に討ち取り、続いて浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純といった部隊を撃破し、遂には徳川家康の本陣に突入するという活躍を見せた。
しかし、真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、四方から関東勢の攻撃を受けたため撤退を決意。退却においても勝永の指揮ぶりは際立っており、反撃に転じた藤堂高虎隊を撃ち破ると、井伊直孝や細川忠興らの攻撃を防いで、城内へ撤収した。
8日、その最期は、守護していた豊臣秀頼の介錯を行った後[32]、息子である毛利勝家、弟の山内勘解由吉近と共に蘆田矢倉で腹切って自害したという。享年37。

4: 名無しさん@おーぷん 2016/09/02(金)23:29:29 ID:iS0
毛利勝永は天王寺口の決戦で多大な活躍を見せたが、これを望見していた黒田長政は僚友の加藤嘉明に「金ノ輪抜の旗指物の城兵が力戦しているが、あの大将は誰であろうか」と尋ねた。
嘉明は「毛利壱岐守が子なり」と答えた。それを聞いた長政は「ついこの間まで幼若の者と思っていたが、武略に練達した大将となったものよ」と感嘆したという[36][37][38]。

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