1024px-地図_令制国_尾張国.svg


1: 人間七七四年 2011/09/19(月) 17:57:39.30 ID:eeWft0+E.net
関東での群雄割拠とかなんだったの?

4: 人間七七四年 2011/09/19(月) 18:40:07.97 ID:PWrISszu.net
地政学的に尾張は小国ではない

以上

5: 人間七七四年 2011/09/19(月) 19:07:28.76 ID:99jXDuh2.net
尾張は港と通行で上がる税が桁外れだった
関東みたいな田舎とは訳が違うのよ

6: 人間七七四年 2011/09/19(月) 20:01:44.79 ID:xdSYq6pW.net
中国地方の大内や四国地方の細川・三好も結構簡単に、
上洛してるよな。

7: 人間七七四年 2011/09/19(月) 20:45:26.11 ID:xdSYq6pW.net
中国地方より遠いのに、
関東は北条、千葉、佐竹、武田と4分割状態。
かなり不利だと思う。

9: 人間七七四年 2011/09/19(月) 22:23:08.50 ID:P1EHmUI2.net
実際信長の生涯の半分以上は尾張統一と美濃侵略に使われた訳で…

19: 人間七七四年 2011/09/24(土) 08:42:33.34 ID:GpjwEJ+5.net
尾張は当時の日本の地方都市の中では人口多いから小国とはいえないな。

20: 人間七七四年 2011/09/24(土) 13:05:30.09 ID:JkCFgZmx.net
尾張は小国ではないが、尾張の守護代の奉行の家で尾張の下四郡しか支配していないのが弾正忠家。更に信秀没後に家中が分裂してその下四郡全てを支配していないところからスタートしたのが信長。
信長自体は弱小勢力。

21: 人間七七四年 2011/09/24(土) 13:13:49.79 ID:gBRIV2en.net
弱小勢力だけど金は持ってて、それを使った謀で尾張を統一した印象

22: 人間七七四年 2011/09/24(土) 13:30:25.42 ID:JkCFgZmx.net
>>21
そう?信長公記なんか読んでると小勢で遮二無二城攻めして信長自身が最前線で鉄砲撃ったりしてるけど。

24: 人間七七四年 2011/09/24(土) 16:50:16.26 ID:JkCFgZmx.net
信長が画期的だったのは戦略的な居城移転と合戦時の城砦群建築。
特に城砦群の建設による戦術ラインの形成は城攻め(小谷城攻め等)、防衛(長篠の戦い等)、対陣(賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦い等)と活用範囲は広かった。

25: 人間七七四年 2011/09/24(土) 16:53:35.26 ID:OU2lDxDx.net
あの大きさで50万石はチートすぎる

26: 人間七七四年 2011/09/26(月) 14:08:54.55 ID:HHrRu2P+.net
尾張は商業が発達してたから信長は天下取れたんだという説多いけど
あれっぽっちの面積で50万石超えるような農業生産力があってこその商業だよな

28: 人間七七四年 2011/09/26(月) 21:18:16.28 ID:mv90EDVo.net
信秀に従ってた尾張衆のほとんどは家臣じゃなくあくまで寄騎だったからな
林や柴田、丹羽といった連中も家臣なのか寄騎だったのか疑問視されてる
家臣だったってはっきりしてるのが平手
寄騎だったのがはっきりしてるのが前田や佐々か

116: 人間七七四年 2012/06/27(水) 22:46:31.59 ID:47cD1CHH.net
>>28
すぐに取れそうな三河を取らずに、美濃を数年攻め続けたあたりが信長のすごさじゃね

38: 人間七七四年 2011/10/01(土) 21:47:14.99 ID:RJnXih4B.net
いや尾張だけじゃ、さすがに天下には程遠かったろうね。
信長がなんとか10年かけて美濃を攻略したのが大きかった。
これで天下を狙える勢力になった。

「信長の野望」の最初のバージョンで
最初の一国取るのが大変だが逆に取れてしまえばトントン拍子という点が
皮肉にもよく再現されている。

42: 人間七七四年 2011/10/04(火) 22:08:12.63 ID:DdkCKeOR.net
でもよー三好は首都京都を中心に500万石はもってたんじゃね?
なんで信長公のパンチ一発でKOされちゃったんだろ
そして信長公は群雄のすさまじい猛攻に耐えて首都を防衛したし
やっぱ信長公というリーダーの力が凄まじく重要なんじゃね?

44: 人間七七四年 2011/10/04(火) 22:56:29.47 ID:TI3JMfB0.net
>>42
三好は京の経済を掌握したわけじゃないからな。
信長は尾張の流通に美濃と伊勢の流通を支配して根拠として近江を同盟下において京の流通を支配した。
支配を広げる度に金の流れを掌握した信長との差がそこにはある。

45: 人間七七四年 2011/10/05(水) 20:21:02.13 ID:9sFEx03a.net
>>44
三好は六角と戦ってたから、京の経済を掌握どころか、
京そのものも完全には掌握してないから。

信長が幸運なのは、六角と三好の両方が調度衰退してた時に上洛した事だな。
しかしその後の粘りは、頑固汚れ並に凄いと思う。

59: 人間七七四年 2011/12/09(金) 22:43:40.83 ID:+iz8Cvnn.net
>>45
京都の復興に三好家が一枚噛んでなかったっけ。
織田が上洛した頃には、応仁の乱以前のの賑わいを取り戻していたらしいけれど。

48: 人間七七四年 2011/10/22(土) 13:31:20.43 ID:HmaW4LWP.net
結局農耕地の面積だから
信濃があんなだだっ広くても50万石しかないし

63: 人間七七四年 2011/12/29(木) 15:27:43.17 ID:KCMjRYT0.net
尾張は大国
尾張美濃併合すれば超大国

64: 人間七七四年 2011/12/30(金) 09:30:49.35 ID:E15Q5Anl.net
>>63
亜熱帯化した現代でさえ平野部が雪に埋まる尾張のどこが大国だ?
延喜式では尾張・美濃ともに上国。
近隣の大国は、伊勢くらい?
(大和と近江は忘れた)

余談だが甲斐も立派に上国。
仮に信長が成人時に尾張一国を掌握してたとしたら、武田信玄とスタート環境は互角。
但し、いたって常識の範囲での推測だが
シバ(字捜すの面倒い)の領地の尾張は、応仁の乱に人間を入れてるから国土の荒廃は甲斐とは比べるまでもなく悲惨ではなかろうか?
(まあ、アンチ信長は資料の取捨選択がお得意だから自分が偽資料としたものを引用してるような、一次資料wから尾張は豊かだ!って反論するだろうけど)

74: 人間七七四年2011/12/31(土) 14:01:17.58 ID:7Dmr82ek.net
>>64 
石高で尾張は59万石 
甲斐は22万石 
しかも太閤検地によるもの 
災害オンパレードの戦国時代甲斐はこれより下がる可能性大 
これでどうやったら対等になるんだよ 
さらにいうと、尾張は信長の親父時代で既に朝廷献金額がトップレベルの凄い商業地 
明らかに尾張は上国 
お前が資料の読みあわせすらできないで、無理やり脳内変換で尾張を悲惨にしてるだけ


71: 人間七七四年 2011/12/30(金) 21:37:06.04 ID:DD9/EFwP.net
尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、
その富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支えていた

72: 人間七七四年 2011/12/30(金) 22:25:37.30 ID:ke+CWghb.net
尾張は、昔から畿内覇権に関与してる。
継体天皇、大海人皇子は、尾張氏のバックアップが決定打とか言われてるし、
邪馬台国のライバル、狗奴国が尾張にあったという説まである。

73: 人間七七四年 2011/12/31(土) 08:29:56.31 ID:WGenGiM4.net
尾張三河は
頼朝、尊氏、家康を支えた重臣をたんまり輩出してるからな。
地力がある土地なんだよな。

77: 人間七七四年 2012/01/07(土) 01:08:39.62 ID:QeKvIIIQ.net
>>73
源義朝って熱田神宮の宮司の娘を正妻にしてたんだね
頼朝にとっては母親方の実家が愛知ってことか

75: 人間七七四年 2011/12/31(土) 17:36:55.04 ID:aEVH4OsC.net
甲斐や越後の永禄期の天候不順による飢餓と災害ぶりは致命的レベルだったからね。
それで信玄も治水土木を必死にやりまくって
元亀に入ると飢餓も災害もほとんど見られなくなる。

76: 人間七七四年 2012/01/05(木) 18:02:55.15 ID:I4dYYDLN.net
戦国時代の農業生産高+商業規模で大国を決めなおすというのなら、
近江、伊勢、摂津、武蔵、陸奥、出羽は確定で、
尾張、越前、大和、和泉、播磨、常陸、肥前、肥後、越後あたりがそれに次ぐ感じでしょうか。

上記のうち、1560年代に統一勢力下に置かれたのは武蔵、尾張、越前、越後ぐらい?

84: 人間七七四年 2012/06/05(火) 10:16:32.26 ID:HkHcu1V1.net
尾張は関東や大坂と同様に広大な濃尾平野があったし
大河による海上交通網があったので
発展の余地が元々あったといえる。

88: 人間七七四年 2012/06/14(木) 23:14:31.83 ID:BQ1uAtf3.net
尾張藩は62万石の石高

94: 人間七七四年 2012/06/19(火) 21:28:47.99 ID:ZRuMc3hE.net
尾張単独で戦ったのは美濃攻略まで。
ただ、尾張半国しか勢力下になかった信秀の代で朝廷献金額一位
という事からすれば大国だったのは間違いない。

太閤検地で日本全国1300万石だったか。
濃尾で100万石、伊勢・志摩と近江の8割を併呑して200万石、
山城・大和・摂津・河内・和泉の大半を制して250万石近く?と
草津・堺など全国有数の経済都市を直轄領にする。
包囲網で暫く苦しむが、滅ぼして越前・若狭・北近江を併呑(350万石?)。
その後は、加賀・能登・越中・伊賀・丹波・丹後・播磨・但馬・備前・美作・因幡・淡路を順次平定(600万石ぐらい?)。
生野銀山もゲット。
武田征伐で爆勝して甲斐・信濃・上野で700万石突破?

美濃攻略以降は圧倒的すぎて倍倍ゲームのようだな。
もちろん信長が凄かったのが一番の要因だろうけど。

98: 人間七七四年 2012/06/20(水) 07:27:45.51 ID:lr5lcXVk.net
信長は美濃に出るのすら苦労してたんだよな。
しかし美濃を取ってからは破竹の快進撃で
三人衆、竹中、仙石など美濃衆の活躍も大きかった。

美濃を取れたのは三河の徳川との同盟が大きかったのかもしれないが。
それを仲介した水野を評価する声なんかもあったかな。

109: 人間七七四年 2012/06/26(火) 06:07:26.76 ID:IuldI+iG.net
土佐は17万石、元親が統一時に1割少なかったとしても15万石。
それでも伊予の一郡しか領してない西園寺を攻略するのに10年かかった。

信長の攻略の早さは他大名とは比較にならない。

111: 人間七七四年 2012/06/26(火) 11:37:16.44 ID:/snUicgc.net
>>109
・阿波、讃岐を優先した
・毛利の介入を恐れた
・地形が急峻

113: 人間七七四年 2012/06/27(水) 00:17:31.21 ID:8oDudBoe.net
>>111
・阿波、讃岐を優先した
これはあるだろうが、西園寺は一条とも戦い続けて
その流れで長曾我部と戦ったから手抜きではないだろ。

・毛利の介入を恐れた
毛利の勢力は中予まで

・地形が急峻
これは豪雪地の冬季なら分かるが、普通に往来があるんだが

118: 人間七七四年 2012/06/28(木) 18:06:43.19 ID:CsxIRvwh.net
>>113
往来はあっても、ある程度の軍隊動かすほど整備された道はなかっただろ
水曜どうでしょうの四国八十八か所見てもここで軍隊動かすのは難しそうだなと思うし

114: 人間七七四年 2012/06/27(水) 01:00:53.43 ID:dPm3LDpP.net
鉄砲を装備した伊予勢は土佐勢には荷が重い相手だった

120: 人間七七四年 2012/07/02(月) 18:15:21.73 ID:F1uK6jKl.net
太閤検地による石高と国の面積との比率で言えば
尾張はおそらくぶっちぎりでトップ
耕作可能地域が広く、地味も肥えてる
その分大量の兵を養うことができる

あと、愛知県って今でも何気に農業県なんだよね

121: 人間七七四年 2012/07/02(月) 21:18:54.46 ID:r1t4Rg/s.net
トップは近江の83万石だったと思うが。
尾張は60万石

122: 人間七七四年 2012/07/02(月) 22:29:35.35 ID:F1uK6jKl.net
>>121
各国の面積に対する比率の問題
面積では滋賀県全部と愛知県の半分(実質3分の2くらい?)ではかなりの差があるわけで

123: 人間七七四年 2012/07/03(火) 06:40:51.60 ID:fgJ2zOmB.net
面積と可住地面積は違うけどな。
可住地面積なら尾張は相当広いだろ。

141: 人間七七四年 2012/12/29(土) 15:37:40.07 ID:GGsffWws.net
さくっとは勝ってないだろ、美濃攻略にえらい手間ひまかけてるし

142: 人間七七四年 2012/12/30(日) 01:55:10.43 ID:NFtPzF6X.net
義竜が生きてる間は全く歯が立たなかったからなぁ

145: 人間七七四年 2014/01/10(金) 20:11:24.53 ID:9kXGrZ30.net
尾張って慶長3年の検地でたまたま豊作の時期にあたって高かっただけじゃね
慶長郷長高や正保郷長高の検地では大した事なかったし。

173: 人間七七四年 2014/02/07(金) 04:36:04.38 ID:ADY2FvwY.net
>>145
慶長3年高の57万1737石4斗(古高)は、慶長3年(1598年)の時点で豊臣政権が把握していた石高で、 実際の検地は文禄2年(1593年)に実施されている

徳川時代に入った慶長12年(1607年)に再検地が実施され、石高は48万0840石7斗(元高)に減った

ところが正保元年(1644年)に尾張藩は年貢を据え置きのまま
税率が六公四民から四公六民になるように石高の方を変更するという
机上での石高操作を行い、尾張国内の石高が一気に70万石(概高)に増えた

しかしながら幕府の方には従来通りの計算で正保高として52万6493石5斗1升を報告した

まとめると徳川時代に入り、住民の不満を和らげるために石盛を甘くした
その後、尾張藩内では昔の石高に戻したが、公式には減らした石高のまま継続した

106: 人間七七四年 2012/06/23(土) 16:58:04.87 ID:pWgYgTFU.net
美濃攻略後は西だけ見てれば良かったからじゃね 

武田裏切り後は徳川がよく武田を押さえ込んでたし 
同盟を簡単に反故にする武田が簡単に滅んだのとは 
真逆に家康との同盟を堅持した信長だからこその快挙

151: 人間七七四年 2014/01/11(土) 13:35:08.44 ID:/iaJHLV2.net
検地は実際の取れ高とは限らないからね、基準とはなりうるけど。
そもそも検地も尾張みたいにかなりの程度土地を把握していて
ある程度厳密に検地出来るとこもあれば、
逆に指出で済ませたりと、ろくに把握できずに済ませたとこもあるしで、
いろいろ政治的要素も絡んでくる。

1111: 過ぎたるは及ばざるが如し1600/10/21(水) 00:00:00.00 ID:rekichiho
引用元;http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1316422659/