sanadamaru2693


1: 人間七七四年 2006/07/14(金) 22:36:30 ID:TmC93GmF
舞兵庫や島清興など多彩な石田家臣達を語りましょう

2: 人間七七四年 2006/07/14(金) 22:38:05 ID:HOqz1wlt
左近が三成に仕えたのは、いつからなんだろう

21: 人間七七四年 2006/07/18(火) 17:08:58 ID:hRO42lqx
>>20
一応、1590年の小田原の戦いで一緒に行動してる資料があるから
仕官したなら4万石の時に仕官じゃね?もっとも今は
左近は秀吉死後まで与力説もあって、結構それらしき証拠もあるので
真実はわからんよね

3: 人間七七四年 2006/07/14(金) 22:41:41 ID:aMvroXyH
大河ドラマ『葵徳川三代』を思い出す。
喜内「散り残る椛とは・・・?」
三成「無論・・・!豊臣家じゃ!」

9: 人間七七四年 2006/07/14(金) 23:51:46 ID:OgzHOkeq
>>7そうそう、三成に戦況報告した後、戦闘中に矢にあたってたな。
前野忠康(舞兵庫)って戦死説と逃亡説が有るんだよね。

12: 人間七七四年 2006/07/15(土) 08:47:42 ID:XTrcf3w+
>>9
前野忠康って長康の一門?

13: 人間七七四年 2006/07/15(土) 08:57:51 ID:0ZjhBbbe
>>12 
長康の娘婿だった気がする

4: 人間七七四年 2006/07/14(金) 22:46:23 ID:TmC93GmF
横山喜内は最後の有楽に討ち取られたっていう所で微妙に評価下がってる気がするよな。
当時、「有楽の武辺、末の初物」って言われるくらいの有楽だからなぁ

6: 人間七七四年 2006/07/14(金) 22:52:31 ID:aMvroXyH
横山無念・・・。
にしても石田家臣は個性強いな、個人的に八十島助左衛門が好き。

11: 人間七七四年 2006/07/15(土) 06:16:27 ID:qoeCN0nf
渡辺勘兵衛の500石の話って本当なの?

26: 人間七七四年 2006/07/21(金) 15:10:22 ID:7wasD+dJ
>>11
今更だけど500石の話とは?

27: 人間七七四年 2006/07/21(金) 17:50:15 ID:KwRo2S57
渡辺勘兵衛の500石の話
 
 渡辺勘兵衛は武勇の士として有名だった(増田長盛、藤堂高虎に仕官した渡辺勘兵衛とは別人)。
ところが、勘兵衛は10万石でないと二度と仕官しないと公言していた(実質上の引退宣言か?)。
その武勇を惜しんで柴田勝家が1万石で勘兵衛を召抱えようとしたが
勘兵衛は「10万石でないとダメだ」と断り、
豊臣秀吉も2万石で召抱えようとしたが、
またも勘兵衛は「10万石が1石でも欠けたらダメだ」と断った。

あるとき、その勘兵衛が石田三成の家臣となったという話が伝わり秀吉を驚かした。
秀吉は三成を呼び出して問いただした
「勘兵衛のような豪傑をよくもお前みたいな小物が家臣にできたな。どうやって口説いたのじゃ?」
三成は得意になって答えた
「私が100万石になったときに10万石にしてやる。それまでワシの500石を全てお主にやろう、と約束したのです。」
当時、三成の石高は500石だった。
秀吉「勘兵衛に500石やれば、お前の食い扶持がなくなるではないか?」
三成「はい、だから私は勘兵衛の居候になりました。」
これを聞いた秀吉は三成の剛毅さに感心したという。

後に三成が出世した際、三成は勘兵衛にも加増しようしたが
勘兵衛は「100万石になれば10万石頂きますから」と言って生涯500石のままで通した。

関ヶ原の戦では勘兵衛も力戦した。
味方が崩れる中、三成は勘兵衛に「10万石の話も夢になったな」と語りかけた。
最後まで自分との約束を気にかけてくれた三成に勘兵衛は感謝して死んだという。

33: 人間七七四年 2006/07/22(土) 17:41:20 ID:W88/5ttH
>>27
教えてくれて感謝です。
それにしても触れこみの、「十万石でなければ~」ってのは随分と高いなぁ

28: 人間七七四年 2006/07/21(金) 17:53:18 ID:WiuuTeLP
渡辺勘兵衛って二人いるからややこしいよな

34: 人間七七四年 2006/07/22(土) 21:42:04 ID:l/kkzBlj
大和系    島左近清興
秀次系    舞(前野)兵庫忠康、大山伯耆
氏郷系    蒲生真令(横山喜内)、蒲生郷舎

こうしてみると、よく言われる
「関ヶ原で秀次旧臣の人間はみな逃げ出したが、蒲生旧臣の人間は勇ましく戦った」
という評価は首を傾げたくなるな。  

48: 人間七七四年 2006/09/15(金) 23:05:23 ID:el2NQm3A
wiki見ると三成と秀次の関係が通説と180度違うな。
でも八人衆の内七人が三成に仕官し、六人までが三成家臣として
死んだとところをみるとこっちもなかなか説得力あるな。

いくら戦国時代とはいえ、通説どおりだといわば主君の仇である
三成のために命を捨てるとは思えない。

49: 人間七七四年 2006/10/03(火) 11:39:07 ID:Lst927iH
大河ドラマじゃ三成が秀次の讒言ってのが定番だが、アレは嘘だな。

54: 人間七七四年 2006/10/12(木) 22:55:28 ID:OAS+zwHw
>>49
むしろ秀次を弁護したらしいからな
しかし前野長康のような創業の功臣すら秀次を擁護したがために切腹させられたのに
同じ事をしても咎められなかった三成の寵臣ぶりは凄い

50: 人間七七四年 2006/10/06(金) 10:18:15 ID:+8NKFNvX
殺生関白のエピソードも嘘臭いけどな・・・・

52: 人間七七四年 2006/10/12(木) 11:32:36 ID:+LPHz1m7
三成の配下って蒲生浪人多いよね
元々、蒲生家が近江の出だから
蒲生家減封時に故郷に帰農したのを大量に召抱えたんかね?

57: 人間七七四年 2006/10/14(土) 03:00:25 ID:tTJoyy79
>.>>52
蒲生氏郷の家臣は下賜した蒲生姓が多いけど、必ずしも近江系だとは限らない。
つーか氏郷が急膨張した家臣団をとりあえず自分のカリスマでまとめて
後でゆっくりなじませようとして蒲生姓濫発したくらいだから、むしろ近江系は少なかったのでは?

53: 人間七七四年 2006/10/12(木) 12:00:56 ID:aT8BsPFB
蒲生浪人を召抱えたあたり、氏郷毒殺も濡れ衣臭いな。
でも近江出身つっても南北で歴史的にも隔絶、同郷意識なんてあるかな?

181: 人間七七四年 2012/07/31(火) 03:38:18.37 ID:3upy2+rX
>>53
そもそも蒲生氏郷の死因は胃癌であることが確実視されてるしね。

76: 人間七七四年 2007/02/16(金) 22:56:45 ID:yh9e0jTE
島左近、蒲生頼房、舞兵庫

90: 人間七七四年 2007/08/31(金) 17:02:53 ID:3umdY3NN
関ケ原の戦いぶりから、生き残り組はわりと早く誰かに召し抱えられたって
いうけど本当かな?

藤堂高虎がけっこう元石田家臣召し抱えてるイメージがある

98: 人間七七四年 2007/10/13(土) 16:21:28 ID:Ffj/ew6A
石田一族の評価はどうだろう?

99: 人間七七四年 2007/11/15(木) 05:22:37 ID:Gkf5keFg
>>98
一族揃って、そこそこ優秀だったと聞くが。特に兄の正澄とか。

100: 人間七七四年 2007/11/15(木) 08:12:29 ID:g2+eDXkv
石田家臣も、他家の家臣と比べて教養が高かったと聞くが、あはり、これは三成の人選選びなのか?

113: 人間七七四年 2008/01/31(木) 02:32:56 ID:oH5Zwxko
明智家と同じぐらい家臣の結束は強そうだ。

115: 人間七七四年 2008/04/09(水) 21:33:34 ID:xs19tTUr
石田三成の重臣・島左近、領国経営に深く関与…文書発見

石田三成が島左近らに領地経営に当たらせるなどと通達した古文書 戦国武将の石田三成が、重臣・島左近らに 年貢収納を任せるとの内容の文書が見つかり、滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館が9日、発表した。
 
文書は縦14センチ、横44センチ。三成が佐和山城(同県彦根市)の城主だった16世紀末に書かれたらしく、 県内に住む代官の子孫が所有していた。代官に対し、城を空けることの多い三成に代わって左近ら3人の指示に 従うよう記し、花押と日付があった。
 
数々の武将に仕官し、勇猛で知略にたけた左近は、三成に高禄(こうろく)で迎えられ、「三成に過ぎたるものが 二つあり 島の左近と佐和山の城」と高く評された。
 三成の文書で左近の名が出てきたのは初めてで、静岡大の小和田哲男教授(戦国史)は「左近の生涯は謎が 多いが、領国経営に携わる姿が浮かび上がる。三成らの研究にとって画期的な発見」としている。

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20080409-OYT1T00655.htm?from=main4
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20080409-1943716-1-N.jpg

117: 人間七七四年 2008/04/10(木) 00:26:07 ID:sqtNBPSg
>>115
>左近ら3人

あと二人は誰?

118: 人間七七四年 2008/04/10(木) 20:15:47 ID:0w9Dek3Y
>>117
何かのニュースで、嶋左近と山田上野と四岡帯刀と書いてあった。
日向帯刀の間違いじゃないかと思い、画像を拡大してみたが判読出来なかった。
続報を待つしかないか。

127: 人間七七四年 2008/09/02(火) 07:00:30 ID:BfxI7IwH
>>115
左近て内政にも関わってたのか。

128: 人間七七四年 2008/09/02(火) 07:24:59 ID:OCWTXw11
>>127
結構な所領を預かっているんだから、そりゃ内政もするだろうね。
この頃は農兵分離どころか政軍分離もできていない。

129: 人間七七四年 2008/09/02(火) 11:05:07 ID:BfxI7IwH
>>128
代官に任せきりと思ってたw

130: 人間七七四年 2009/01/07(水) 13:36:39 ID:ViiRzu0F
林半介

百姓であったが、三成に仕えて禄700石の使番に抜擢された
石田家生え抜き家臣。
関ヶ原役で三成が佐和山より出陣の際に城中において
軍兵を集めて書院にて饗礼をおこない、
「われ今かかる一大事を思い立ち、運を天命に任すといえども、
汝たちが武勇をひとえに頼む処なり。
その旨を存して軍忠あらば賞は功によるべし。その約束の印」
と酒盃を座の中央に出したときに、半介は遥か末席より進み出て
「いくさに臨みて一番は知らず、二番はかく申す半介としろし召されよ。」
と功名を誓い、その酒盃を取って飲み干した。
その場にいた者はみな「にくき振る舞いよ」と言い合ったが、
杭瀬川合戦で半介は一番首をとった。
両軍が引き分けたときには半介が白じなへの指物を指して殿軍していたが、
退きながらなおも本多忠勝軍に向かって、
ただ一騎輪をかくる有様で敵があるとも思わない体であった。
この様子を見ていた家康が
「あの『白じなへの差物』を差していた林半介とは、あっぱれ不敵な武者よ、
武功を志すものはかの者の草ずりでもいただくがよい。」
と感嘆した。

これも三成の太閤リスペクトなのかなw?

138: 人間七七四年 2009/05/04(月) 02:08:34 ID:+hLfnim5
>>130
そういう良い話しはちょっといい話しの方にも書いてくれたらいいのに

132: 人間七七四年 2009/01/11(日) 11:06:42 ID:VsQDIVAl
結局、蒲生郷舎って本当に三成の家臣にいたの?

133: 人間七七四年 2009/01/12(月) 19:07:37 ID:SpRFO8Ya
ちゃんと居たけど蒲生郷舎と横山喜内は別人だと最近は言われてるな。
郷舎は関ヶ原後も生きているので、
関ヶ原で有楽斎と戦って死んだ石田家家老は「横山喜内=蒲生頼郷」が新説。

134: 人間七七四年 2009/03/12(木) 20:05:52 ID:7jsqTREE
石田家が潰れた後は、皆々どうしたの?

135: 人間七七四年 2009/03/24(火) 10:38:07 ID:X11rKVB2
>>134
生き残った人間の大半が他家に仕えた。
かなり優遇されたらしいと資料にある。

145: 人間七七四年 2009/12/24(木) 07:24:49 ID:T/LF5JvS
>>135
生き残った連中の士官先とか知ってる?

146: 人間七七四年 2010/01/11(月) 03:59:19 ID:LqDyBosm
>>145
福島家、黒田家、藤堂家とか。
経済官僚の不足で幕府に召し出された奴もいたような。

誰の言葉だったか忘れたけど「さすがは石田の家に召し使われるほどなり」、という言葉も残っていて、石田家臣は武士の模範みたいな言われ方もされてる。