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136: 人間七七四年 2008/12/05(金) 01:41:42 ID:loLWwcfy
祐兵は実際はもっともらえる予定だったという話もどこかで読んだような・・・
でも豊臣政権内の派閥争いに巻き込まれて旧領相当の飫肥5万石に落ち着いてしまった。

祐兵は家族を抱えて放浪していたところを中国攻め中の豊臣氏にひらわれたという経緯から
豊臣秀長が特に目をかけていたらしい。
また、秀長は九州御動座の時の日向側攻撃総大将だったので、とくに祐兵を厚遇してやりたい! という気持ちが強かったようだ。

ところが
・九州御動座で秀長が余りに目立ちすぎたのが、さすがの秀吉にも不満だった
・秀吉は日向を大友宗麟にやろうと勝手に考えていた(但し、宗麟断る→直後に病死でご破算に)
・日向全土を他大名に取られることをメンツに関わるとして恐れた島津氏が石田三成を使って秀吉に猛アタック

新興官僚派・石田三成を使った島津家の勝利
旧来家臣派の豊臣秀長側だった伊東家は目標の半分しか達成できなかった・・・

まあ、その結果、
島津家は石田三成に家中に介入されまくって、その後は統制乱れまくり
伊東家はこの時のリベンジを計ろうとして関ヶ原で東軍について活躍!・・・したのはいいけど、 やりすぎて後で家臣に泥をかぶってもらうことになり、結局領地も増えず
・・・というドロドロの結果に。

137: 人間七七四年 2008/12/05(金) 06:53:10 ID:VKsgP1S3
しかし大友の日向一国統治もみてみたかったような…

138: 人間七七四年 2008/12/07(日) 13:30:43 ID:hdfBpqzr
宗麟のままだったら神社仏閣が軒並み破壊されてたんだろうなw

139: 人間七七四年 2008/12/07(日) 23:34:16 ID:3w36MNiZ
で、バテレン追放令でソリーン改易、やっぱり再び小藩分立の道へ。

う~むどうしても同じ道に戻るな。

140: 人間七七四年 2008/12/07(日) 23:53:25 ID:adCOfhrD
宗麟自身あまり体が丈夫な方じゃなかったから
日向を宗麟流にまとまる前に義統に代替わりしそう
義統では反バテレン系家臣や日向の地侍達を押さえ切れそうにないし


神社仏閣を壊しまくって領民の大友への不満も達してるだろうから伊東氏やその一党の巻き返し 領民が島津を誘い入れて大友を日向から追い出す様なシナリオ等色々考えられるね

141: 人間七七四年 2008/12/08(月) 07:04:18 ID:98HixFAm
しかし宗麟はなんで、秀吉からの日向一国加増をことわったんだろうね。やはり耳川がトラウマだったのかな?

159: 人間七七四年 2008/12/27(土) 04:06:51 ID:rPSUcDSk
>>141
大友に日向一国を与えようとしたのは、豊薩戦争で活躍した志賀親次と 佐伯惟定の2将への恩賞っていう面が強くて、この二人をで大友家から 切り離そうという下心があったんじゃないかと読んで断ったんじゃないかな?

既に立花宗茂を豊臣にやってるから、人材面で豊後一国でも治めるのが難しい
状況だったしね。

142: 人間七七四年 2008/12/08(月) 13:59:57 ID:oWOawWl7
それこそ耳川の敗戦で初めて日本の神様を恐れるようになったのかもね・・・。
よりによって神道の根城みたいな土地で神社を壊しまくったわけで

143: 人間七七四年 2008/12/08(月) 19:21:18 ID:aIelrmLn
というよりそんだけやりたい放題やった土地なら
反大友の空気が強いからじゃないの

144: 人間七七四年 2008/12/11(木) 08:06:59 ID:8FBJM72k
なんせ大友軍は耳川への途次、神社仏閣をかたはしから壊して、道の悪いとこには仏像をおいて進軍したらしいからね。 

大分兵も躊躇したひともあったかもね。 

とくに延岡方面は土持戦、もあり徹底的にやられたらしく、多くの資料が焼かれて中世の歴史がほとんどわからんらしい。

耳川はマジに天罰かも知れないし、宗麟にもその意識があったかもね。 

耳川から豊後へ逃げ帰るときは県北方面のものからかなり襲撃されてるしね。 
もう日向は懲り懲りと…

155: 人間七七四年 2008/12/25(木) 06:36:48 ID:DUCnbGcn
天正十五年(1587)五月十三日付で秀吉が弟の秀長に宛てた「条々」では、日向一国は大友宗麟にあたえ、日向国内で大隅国に近接した城に一郡をつけて伊東佑兵を入れて与力とし、また大隅国は一部を伊集院忠棟 

にあたえ、残りは土佐の長宗我部元親にあたえるとされていた。
しかし、大友、長宗我部が辞退したためこの計画は実行されなかった。

156: 人間七七四年 2008/12/25(木) 12:02:41 ID:4qyVNh2F
大友の日向辞退はともかく
長宗我部の大隅辞退は当然だ罠 
隣国とは言え海を隔てて全く別の場所だし、薩摩藩時代になっても開発が進まなくて苦労した場所>大隅

157: 人間七七四年 2008/12/26(金) 04:45:03 ID:bKIwG8yG
長宗我部は戸次川で最愛の長男を討たれているから、戦功と別に秀吉が配慮したんだろう。

島津のその後の歴史に於ける功績をおもうと、もしこの両氏が秀吉の知行を受けていたら、明らかに日本史は後退した罠

411: 人間七七四年 2010/05/03(月) 19:25:24 ID:VdqdRrA4
薩摩28万石
大隅17万石
日向12万石

天正19年8月吉日付けの「 豊後国御検目録 」だと
大友吉統は23万6,020石余で秀吉に報告。
日向は独立国人ばかりだしなー