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1: 日本@名無史さん 2014/06/22(日) 00:14:23.94
家康に無理矢理大阪城を追い出されたのに、家康を手引きしたと
言われ、仲の悪い甥っ子が勝手に西軍を裏切れば唆したと言われ
軍事的に妨害されて大阪の陣の時に大阪城に行かなければ
豊臣家を見捨てたと言われる。

貧乏くじを引かされがちな北政所はどう動くのがベストだったのでしょうか?
検証するスレです。

10: 日本@名無史さん2014/06/22(日) 21:05:06.26
>>1でいわれているような 
淀殿憎しで家康に通じたとか 
東軍の黒幕だったとか 
興味本位な後世人の勝手な邪推で 
別に北政所に責任があるわけじゃないからねえ

2: 日本@名無史さん 2014/06/22(日) 00:53:43.26
史実通りで最良なんじゃないのか?
まかり間違えば秀頼派として処刑される可能性もあったし

3: 日本@名無史さん2014/06/22(日) 01:49:29.24
淀君懐妊の時点で一族みんなで逃げる

4: 日本@名無史さん 2014/06/22(日) 02:05:15.51
豊臣中央政府の后人として従一位、しかも高台院を建設してもらい、実家浅野家は安芸の地方政府として幕末まで残りましたから、成功と云えると思います。

5: 日本@名無史さん 2014/06/22(日) 05:46:17.42
信長からも秀吉からも家康からも大事にされ
良い人生だったと思うのだが

>1
あと、北政所は大阪の役の時に大坂城に入ろうとして家康に止められている。
大坂の役の責任が北政所にない以上、妥当なことだと思うが

6: 日本@名無史さん 2014/06/22(日) 11:46:22.60
浅野家は遠縁で実家じゃない。

27: 日本@名無史さん 2014/07/12(土) 11:43:05.80
>>6
浅野家の養女として秀吉に嫁いだのだから実家は浅野家だよ。
生家が杉原家(後の木下家)。

どちらも大名として残ったのだから大成功だろ。
しかもどちらも大名になれたのは明らかに北政所のおかげ。
そして浅野の方が大きい大名なのは北政所の実家だからだ。

18: 日本@名無史さん 2014/07/06(日) 20:23:19.39
でもさどうして北政所が東軍よりなんて無茶苦茶な説がいつまでも
転換されないの?

少なくとも関ヶ原の直前に家康が京都新城の防御機能を壊した事
大津城開城交渉の経緯、家康勝利の報を聞いた北政所が当時の天皇の母の
元に逃げ込んだ事、これだけ揃ってりゃ西軍寄りだった事は確かなのに。

19: 日本@名無史さん 2014/07/08(火) 20:38:01.32
>>18
ねねが大坂城を出たこと、家康の求めに応じて二条城会見に同席したこと
豊臣家滅亡後もねねが秀吉時代からの遺領そのままで(1万7000石)
家康になんら咎められることなく極楽往生したため
家康に近かったのでは?という憶測が消えんのだろ

ちなみにねねは西軍寄りとも言えんのでは
京都新城は無防備で西軍がねねを守っていた事実もなく
家康も豊臣家の城である京都新城の塀や櫓はぶっ壊したが
ねね本人を拘束することはなかった
ねねが准后の邸に避難した際も同行したのは実兄の木下家定のみで他の武将の同行なし
ねねがどちらかの陣営に組していたとは見られない

20: 日本@名無史さん 2014/07/10(木) 19:49:46.98
西軍寄り説は
石田三成の娘を養女にしていたり、
小早川秀秋以外の甥たちの動向はどうだったか
ということもあるかな。

まあ一番大きいのは
関ヶ原の戦いを淀殿対北政所の女の戦いで
無理矢理説明しようとする風潮のせいだろう。
淀殿が西軍方なら北政所は東軍につかないといけないし
淀殿が東軍寄りとなったら北政所は西軍寄りになんなくちゃいけない。

23: 日本@名無史さん 2014/07/11(金) 22:31:22.25
>>20
秀秋以外の甥っこはみんな西軍寄りなんだよね。
東軍扱いされてる勝俊と利房も
勝俊は西軍挙兵の翌日に伏見城を出てるし、利房も田辺城攻めに援軍を
送ってる。まあ田辺城攻めは無罪になった武将も多いから
利房もお咎めなしだったが。
ちなみに北政所の兄家定は北政所の警護に専念していたものの
戦後石高こそ同じだが、播磨姫路という良い領地から
足守なんていう田舎に飛ばされてるし、どう見ても北政所東軍説は無理があり過ぎる。
むしろ大野治長が東軍の時点で…って感じだが。

24: 日本@名無史さん 2014/07/12(土) 04:16:55.60
>>23
北政所の甥たち(いずれも兄木下家定の子)
木下勝俊…東軍
木下利房…西軍
木下延俊…東軍
小早川秀秋…西軍だったが東軍に寝返る

甥たちの同行を見て西軍寄りとも言えないよ

大野治長は関ヶ原の前年、家康から暗殺計画首謀者のいちゃもんを付けられて
下総国に配流されたため関ヶ原の時には大坂城にいない
地理的に家康に付かないと殺されてた

26: 日本@名無史さん 2014/07/12(土) 11:18:17.83
>>24
俺の手持ちの本だとこうなっている。

木下勝俊…東軍。ただし、伏見城を退去したため所領没収。嫁からも離縁される。
木下利房…西軍。改易。
木下延俊…東軍。細川幽斎の娘婿。
木下延貞…不明。当時から秀秋の居候だった?
小早川秀秋…西軍。東軍に寝返る。
木下秀規…西軍。改易。
木下俊定…西軍。改易。

北政所東軍説では秀秋の裏切りは北政所がそそのかしたせいになっていて
北政所西軍説では勝俊の伏見城退去は北政所がそそのかしたせいになっている。

21: 日本@名無史さん 2014/07/10(木) 21:33:17.52
関ヶ原の戦いに限らず
歴史上の出来事はなんでもかんでも女の戦いにこじつけてしまえばよし
みたいなのはどうにかならんものか

25: 日本@名無史さん 2014/07/12(土) 08:39:04.33
結局のところ家臣が勝手に戦争始めちゃって、どうすることもできずに傍観してたってこと?

45: 日本@名無史さん 2015/09/24(木) 03:22:00.79
正直「その場その場でフラッフラしてた」と考えるのが一番真実に近い気がする

48: 日本@名無史さん 2015/09/24(木) 19:15:51.72
北政所は秀吉子飼いの武将(清正とか正則とか)を何人も育てた
とされているけど秀頼は自分の子じゃないしね。
あんまり分からないよね。
千五百何年かの途中でばっくれてんじゃないのかね。
秀吉に天下を取らせて自分の仕事はもう終わったもうどうでもいいみたいな。

56: 日本@名無史さん 2016/04/19(火) 22:01:40.60
石松丸が早世せず北政所の養子にでもなってればよかったかもしれん

57: 日本@名無史さん 2016/04/20(水) 00:40:58.19
江戸時代
木下 浅野 杉原 を残した北政所は勝ち
江戸期も木下氏は豊臣姓を名乗れて
木下家定は准三宮
木下勝俊は和歌の大家

赤穂浅野は忠臣蔵で大人気
芸州浅野は広島の大領
もう勝ち過ぎの人気武家

58: 日本@名無史さん 2016/04/20(水) 10:56:02.83
>>57
江戸時代、杉原家が木下と名乗っていたので同じ家だし
(秀吉や秀長の子孫は残っていない)

まだ高台院の兄甥である木下家は高台院の傍に晩年まで仕えてたが
浅野なんて秀吉が死ぬと御用済みとばかりに高台院のところに訪問もしてないし
ただ家康に仕えて生き残っただけの家だろう

49: 日本@名無史さん 2015/09/24(木) 20:01:43.46
秀頼は北政所を母同然に敬い、淀は生母とはいえ当時の習慣で「腹は借り物」だったんだが。
北政所の木下家の甥たちは秀秋も含めほとんどが西軍だよ。
清正や正則はすでに疎遠で音信はほとんどなかったらしいし。

逆に淀の妹・江は秀忠の妻、もう一人も京極家で東軍。
淀の愛人と言われた大野も東軍。

53: 日本@名無史さん 2015/09/24(木) 23:40:39.05
秀次見捨てた時点で豊臣存続のため彼女にできることはなにも残ってなかったよ
まあ要するに嫡男上げればよかったんだよ

51: 日本@名無史さん2015/09/24(木) 20:58:58.93
まあ、北政所からすれば、秀頼ったってほとんど他人みたいなもんだろうしなあ。 
なんだかんだで、自分の一族は生き残ってるし、史実どおりが最良の選択だよな。